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中・北空知人脈駅伝

ブランシュ・ネージュ オーナーシェフ 瀬川 健一さん

有限会社グランシェフ 代表取締役オーナーシェフ 瀬川健一さんをご紹介します。

第5回目

第5回目は、フランス料理店「ブランシュ・ネージュ」のオーナーシェフである瀬川 健一さんです。
前回ご登場いただきました、プロピアニストの真保響さんから、
「深川出身で単身渡仏後、多くのご苦労の末、フランス人よりフランス人らしいフレンチを作るシェフとして認められ、多くの称賛を受けてこられた本当に尊敬する方!何度お話を聞いても聞き足りないほどの人生を歩んでこられた、素晴らしい方です。」とのご紹介を頂いています。それでは瀬川シェフ宜しくお願いいたします。

――全く調理師としての経験もなく、フレンチシェフを志して単身渡仏されたと伺いました。そのきっかけをお話しください。

私の叔父は今でいうカリスマ美容師で、実家は大手の美容室を営んでおり、住み込みのお弟子さんが7~8人ほどおりました。恵まれ過ぎる環境で自由に育てられ、中学生になった私は、東京への強い憧れを持ち、当時では大変珍しいのですが、東京の高校へ進学しました。
意気揚々と上京したものの、まだ15歳。一人暮らしの大変さと孤独感から一時は故郷の高校への編入を懇願し、実家に泣きついたこともありました。
15歳の一人息子が東京へ進学したいと言った時には、なにも言わず出してくれましたが、弱音を吐いて帰りたいと言ったその時は、烈火の如く母は私を叱り、泣いて嫌がる私を電車に乗せて追い返したのです。絶望的な孤独感に苛まれながら長い旅路を列車に揺られ東京へ戻ったのを鮮明に覚えています。
今思えば「獅子の子落とし」ではないですが、母のあの時の判断があったからこそ困難な壁にぶつかった時「自分なら出来る!絶対何とか乗り越えてやる!」という強さを学び、後の自分の人生を切り開く原動力になったような気がします。
その後、大学に進学した際にホテルのレストランでのアルバイトが、私の料理人としての道を進むきっかけとなりました。食べ終わったお皿を片付けに伺ったその時にかけられた一言、「こんなに美味しい料理を食べられて、本当に嬉しい!」幸せそうなお客様の顔と共にいただいた感動のお言葉が、心に強く響きました。
「料理がこんなにも人を幸せにできるのなら、単にホテルでサービスをするより、もっとお客様に直接感動を与える仕事をしたい。」そう思ったことが、私が料理人を志した原点でした。
常日頃、情熱をかけて取り組めることを、自分の一生の仕事にしたい、どうせなるなら一流と呼ばれる料理人になりたいと思いました。そして、いつしか本場パリで自分の店を持ち、日本人の私が作るフランス料理をフランスの人に食べてもらうという夢を描くようになったのです。

人生を変えた二人の恩人との出逢い

――そして1974年9月とうとう念願のパリに降り立つわけですね。

フランス語も話せない、知り合いもコネも何一つない、包丁の持ち方も満足に知らない私にあるのは、フランスへの憧れと、料理人になる、なってやる!という情熱だけでした。
海外へ行けば、言葉の壁は勿論、生活習慣や文化の違い、そしてその当時は東洋人に対する偏見もありました。そんな中で自分のアイデンティティを大切にしながら、自分の地位を確立していくのはとても大変な事でした。幾度となく襲われる孤独感や屈辱感に打ち勝ちながらも、一度として立ち止まることなく、無我夢中で走り続け「フランスで店を持ち、一流の料理人になる」という夢を追い続けました。

1979年度仏政府最優秀料理人フランシス・トワソリエ氏に師事、その後、トワソリエ氏とリッツ時代からの友人である、帝国ホテル専務取締役総料理長の村上信夫氏をご紹介いただきました。村上氏といえば、日本におけるフランス料理界の重鎮、まさに雲の上の人です。
そんな方が、当時トワソリエ氏の元でソース担当だった私を、とても可愛がってくださるようになり、氏の存在はその後の人生の道しるべとなり、心の大きな支えとなっていったのです。
「お前は、何か困った時、いつも周りの人たちから何かの形で助けてもらえる。そんな星の下に生まれた幸運な子だよ。」それは母の口癖でした。
出逢った多くの方から沢山の愛情や恩恵受け、その夢は現実のものとなったのです。
1983年にはホリデイ・イン・パリのヨーロッパ総料理長に就任し、1987年には念願の自分の店をパリでオープンさせました。紆余曲折はあったものの、真心を込めてお客様へ料理を作り続けるうちに「日本人のシェフだが、フランス人よりフランス人らしい料理を作ると」雑誌に店が紹介されて評価をいただくようになり、認められていったのです。

夢を手に入れ

ブランシュ・ネージュ(白い雪)の素敵な外観  
ブランシュ・ネージュ(白い雪)の素敵な外観  
――ついに夢を叶えられたのですね!!並々ならぬ努力の結果、ご自身の店を構えられたにも関わらず、帰国されましたね。最初は神戸、そして旭川、現在の深川となるわけですね

18年という長きに渡ってフランスで一心不乱に走り続けてきました。家業も継がず、自由に夢を追いかけさせてくれた父の体調が思わしくなかったこともあり1992年に帰国を決意。その後村上氏の推薦で、神戸商工貿易センタービルの中にある超高級フランス料理店の総料理長に就きました。バブル崩壊の煽りを受けて酷い状況の店を再建するための、立役者として呼ばれたわけです。久々の日本、そして日本での下積みのない私がいきなり総料理長となり、色々な面で苦労もありました。兎に角、奇想天外なありとあらゆるアイデアを出して、料理に営業にとやれることは全力でやりました。
徐々に私の姿勢に心を動かしてくれるスタッフも増え、店も少しづつ活気を取り戻していったのです。
しかし1995年「阪神・淡路大震災」に見舞われました。変わり果てた街並みの中で、何とか生き延びることができ、生きている喜びと生きる尊さを実感しました。
自分を広い心で受け入れてくれた神戸にはいつしか恩返しがしたいと考えていますが、自分に課せられた使命は、故郷の地で料理人として自分が培ってきたものを残し伝えることだと強く感じ、1996年旭川でブランシュ・ネージュをオープンしました。そして2008年旭川を閉店し、生まれ故郷の深川にて今の店をオープンしたわけです。

――おそらく何百回と同じ質問をされているかと思いますが、なぜ?数々の賞を受賞され、各ホテルで総料理長まで勤められた、瀬川さんのような輝かしい経歴をお持ちの一流シェフが、こんな小さな町で、しかも1食1000円でフレンチを提供されるのですか?

皆さんそう言ってくださいますが、人は人。私は今までの人生には、やり切った感、充実感がとてもあります。ここに戻ってきて本当に良かったと思っています。テレビや雑誌で華々しく取り上げられる有名料理人もいますが、私が求めていることはそのような事ではないのです。
フランス料理なんて食べたことのないような人々にも、お箸で、そして気軽に食べていただきたい。その為には、材料は違えども、私が培ってきた技術をもって、いかに素材に比重をかけず、手ごろな素材で本場の味を提供できるか日々努力することです。食べ終わったお皿のソースが、綺麗にパンなどで拭き取られて無くなっているのを見ると、お客様が満足して召し上がって下さったのだなと、とても嬉しく思います。それだけでいいのです。
今は亡き帝国ホテル専務取締役総料理長の村上信夫氏から、「お前が今までやってきたことは半端じゃない!お前は他の料理人と同じことはするな!その経験を料理だけで終わらせてはいけない!」と言われてきました。その言葉通り、私には今、料理を通して若い人達に食の大切さ、そして自分の体験から、夢を持って生きることの素晴らしさを伝えたいと思っています。

料理で人を幸せに

――瀬川さんからみた日本はいかがでしょうか?

日本は小さい島国ながら、世界の経済の中心となって成長してきました。世界の人々が注目する国になっているわけです。でも日本に戻ってきて感じることは、やはりここは島国なのだな・・・と。世界はIT技術の発展や交通機関の発達によって物凄く身近になりました。
なのに、この日本の料理界の封建的な構図や、大企業の姿勢など、相変わらずナンセンスなことが多いと思います。パリに居ても日本人観光客が沢山います。ブランド品を沢山身に着け、話題の店で食事をし、年代物のワインを飲むことがステータスのように思っている。本物の良し悪しを知るよりも、上辺だけを知って満足するようなところがあって、なんだか滑稽で寂しいです。
フランスは歴史を重んじ、古いものを代々受け継いで日々の生活を質素に大切に暮らしている国です。建物や風習、持ち物もそうです。日本人のように次々と新しいものに飛びついたりはしません。
その中でフランスの食文化は特に日本のそれとは大きく違います。
美食大国フランスと呼ばれるように食材の宝庫ですし、フランス人にとって食事はとても大切な意味を持つのです。レストランは大人の社交場としてビジネスや友人、夫婦などとの大切な時間を過ごす場所。ソースにしても素材にしてもどのように組み合わせるのか、どんな調理方法を選ぶのか、お客様は本物の味をよく知っているし、厳しい舌と目で評価します。
それだけに食べるほうも、作るほうも真剣勝負。素晴らしい料理を作る料理人には敬意を表します。日本のようにお腹が満腹になればいいというようなそれとは違うのです。

私は厨房に居る時は常に自分との戦いです。良い素材を扱って美味しいものを作るのは、私にとっては当たり前、周りもそう思っていますよ。でも料理には感動が無ければそれだけで終わってしまうのです。
安い・美味しい、それだけでは感動にはつながらない。お客様の予想をはるかに上回る満足を提供できた時に初めて、「ここまでしてくれるの?」と感動をあたえることができるし、その積み重ねが、長い年月を経て口伝えでお客様のリピートにつながるのです。
フランス料理は華やかな印象が先行して、上辺だけの豪華さを提供する店が多いですが、料理とはそのようなものではなく、食べて気持ちが和む、そして幸せになるような物でなければ
ならないと思っています。
厨房に立つムッシュ瀬川
厨房に立つムッシュ瀬川

瀬川 健一氏 プロフィール

1948年
北海道深川市出身、明治学院大学卒業
1974年  単身渡仏。Mr,ジャン・ルー氏(M,O,F,1978)に師事。ナントを始め、ロワール地方、南フランス各地で修業。レストラン「シャールバリエ」(エリザベス女王御用達3星レストラン)Mr,フランシス・トワソリエ氏(M,O,F,1976)「元帝国ホテル村上信夫総料理長の大親友でもある」に師事
1979年
  ホテルド・クリヨン(昭和天皇御宿泊スーパーデラックスホテル)総料理長、ジャンポール・ボナン氏に師事
1983年
  ホテルソフィテル「レストランバロワ」料理長に就任、ブルゴーニュ地方マコン料理コンクールにおいて、全仏料理長部門3位入賞
1985年
  ホテル「ホリデーインパリ」ヨーロッパ本店の副総料理長に就任、フランスで由緒あるニースのエスコフィエ料理協会本部より名誉大賞受賞
1987年
  パリ13区でレストラン「LeSEGAWA」をオープンFIGARO紙を始め、地元紙から高い評価を得る。ジャック・シラク氏(元フランス大統領)も来店
1992年
  帰国、100年以上の歴史を誇るフランスで最も権威のある料理協会より「フランスアカデミーディプローム賞」を日本人として最年少で受賞
1996年
  レストラン「ブランシュネージュ」を旭川市神楽岡でオープン
2000年
  日本文化振興会(名誉総裁六條有康殿下)より、国内料理界初
の国際アカデミー賞受賞、国際文化の交流、国際教育などの帰国後の社会的活動が高く評価される。芸術学博士号取得
2008年
  深川市開西町2丁目にてファミリーレストラン「ブランシュネージュ」をオープン。
数々の賞状
数々の賞状

あとがき

取材前に、瀬川氏が5年に渡り「グラフ旭川」で連載をされてきた「感動の皿」を読ませていただきました。60回にも及ぶ大作で、氏が渡仏してから帰国後、旭川にお店をオープンするまでの激動の半生が綴られています。テンポの良い語り口調と、素晴らしい文章の構成に加え、ハラハラドキドキのトラブルや心温まるエピソードが盛りだくさんで、のめり込む様に一気に読み進み、時には文中の瀬川氏と同様胸を熱くして思わず目頭が熱くなる箇所もありました。
読み終えた後は、物凄い映画を見終わったような感動を受けたので、実際ご本人にインタビューをさせていただく際は、緊張のあまり心臓がバクバクしていました。
そんな私どもの緊張を解すかのように、何度も聞かれているような質問にも、気さくにそして優しく丁寧に答えてくださいました。
瀬川氏は、「料理で人を感動させたい」そんな思いでいつも料理をされているとのことですが、数々の栄光を手にして頂点を極められたような方が、この小さな町で、そしてたった1000円のランチのために、お客様一人一人の為に、前菜からはじまりスープにメイン、デザートと全ての料理の食器の温度にまで気を配るようなサービスをされていることに、先ず信じられない気持ちで一杯でした。最初いただいた時に、美味しいのは勿論のこと、お皿が温められている事に感動。
パンは焼きたて、そして食べやすいようにお箸も添えられていて、本当に食べる人にとっての心づかいが随所にみられ、いただく側も丁寧に、そして味わって頂こうと背筋が伸びる思いでした。又ホールの方の行き届いたサービスの仕方にも心地よさを感じ、さらに豊かな時間に感じられたのです。それなりに名の知れたお店で食事の経験もありますが、こんなに心のこもった美味しい料理をいただいたのは、正直生まれて初めてでした。
そこには瀬川氏にしかできない技術、真心、愛情、すべてがふんだんに盛り込まれ、且つそれを押しつけがましくなく、自然な形で提供されているからだと思います。
そのような料理人としての姿勢は、料理界だけではなく、すべての事に通ずるものだと思います。私自身も今後の生き方を見直す良い機会をいただきました。
近年は、地元の中学生の社会授業として受け入れをされたり、依頼があれば講話も喜んでされているとのこと。
例えが適切かどうかは分かりませんが、氏のように大海原で荒波にもまれ必死に生き抜いてきた末に、こうして故郷に戻り、自分の培ったものを後世に残そうとする姿はまさに鮭のようだと感じました。 貴重なお話をありがとうございました。

そして次にバトンを繋いでいただくのは?とお伺いしましたところ・・・
「同じ深川出身の、合資会社 ホリ ホールディングス(砂川市)の藤田 勲さんを紹介します。旭川の神楽岡でお店をやっていた時代からのお付き合いで、とても素敵な友人です」とのことです。
どんなお話を伺えるのか次回もお楽しみに!!